私が岸由一郎さんとお会いしたのは、1996年初頭のこと。交通博物館工作準備室(兼展示物保管室)でした。収蔵物補修作業のお手伝いでお邪魔した日、ツナギを着込んだ岸さんと一緒にお仕事させていただいたのが最初です。以来、年齢が近いこともあり、同館内でたびたびお仕事ご一緒させていただいたこともあって、公私ともにお付き合い頂戴することができました。岸さんのご執筆・研究の業績につきましては、既に各所で紹介されているところに譲るとして、思い出話を少しだけ、させていただきたいと思います。
・お茶目さん
閉館前の交通博物館、名物パノラマ運転場には、様々な小道具が遊びゴコロ豊かに仕込まれていました。それらは岸さんの「しわざ」。車載カメラ映像モニタで見る人が「あっ」と気付くようにして、前面ガラスから見ていただけでは判らない「見つける楽しみ」を演出していました。1つの場所で何度でも美味しい、モノの持つ「意味と価値と情報」をお客さんに引き出させる試みをしていたのでした。
・マジメさん
交通博物館のパノラマ運転は、その人によって列車のチョイスやタイミングが変わるのも名物でした。あの運転場はATSシステムと同等の安全装置があり、前の列車には衝突できないようになっていたのですが、やはり走行中の列車が突然消灯停止するのは…でありまして、そのギリギリのところでどの列車も自然に走らせる、と言うのはもの凄い技術です。交通博物館職員として勤務されて間もない頃、毎日終電近くまで残られて、あの「解説をしながら怒濤の同時多列車パノラマ運転」と言う離れ業を練習していたんですヨ。
・子どもに優しい
ある休日、小学生低学年くらいの子どもが来館したときのこと。入口で困った顔でウロウロ…それを見た岸さんがササッと近づいて行き、2言3言声をかけて、ポケットから50円玉を握らせておりました。後で伺うに、握りしめた入館料の小銭を落っことしてしまった由。「ボクも困ったことがあるからね。次、きっとまた遊びに来てくれるし、それでイイんだよ。」と言う言葉に、氏のお人柄がギュッと詰まっていたように思えます。
・鉄活動はゲリラ的?
基本的に「土・日=休み」の概念が無かった職場なので、公休日を含めてお休みの日でも各地の保存活動やイベントに積極的に出掛られていたのは、全国各地の鉄道保存活動に携わる方もご存じの有名な話。オフの旅行に出られる時もなかなかゲリラ的で、私の携帯電話に「急なんだけど、明日北陸行くんだ。来る?」という感じで平然とメールが入っていたことも…。たとえオフでも、やはり現地で資料収集や保存のお手伝いなど、一仕事されていた、というのは良くある話です。
・凄腕を繋げた人
岸さんの鉄道分野における交友関係の広さはよく知られたところです。様々な鉄道書籍の監修からTVへのご出演まで「鉄道なら何でも知ってる」イメージがありますが、何よりの強みは各分野の専門さん(現業・趣味問わず)とホットラインで繋がっておられた、また「船頭多くして船山に上る…」喩えがピッタリの趣味人同士を、緩やかに結びつけた、と言うトコロが大きかったと思います。調べて判らなかった部分は、「その道の凄い人or情報が早い人or何故だか知っている人」にお尋ねになっておられました。かくいう私も、幾度かお尋ねを頂戴することがありました。浅学非才を地で行く私ですから、他愛のない話かと思ったら…いえいえ、後日談で展示物になっているモノがあったりして、どビックリ(笑)。
・守れ、歴史の証人
少しだけネタばらし。現在、大宮の鉄道博物館に保存されているマイテ39、長年の保存(半ば放置)のため、以前より内部はそりゃぁもう荒廃しきっておりました。めでたく鉄道博物館収蔵が決まって一安心…もつかの間。展望室部分だけ綺麗に復元してその他部分を調理室に改造し、「喫茶室にする」という驚愕のプランがチラリ。
岸さんも良い顔をしませんでした。展示物が積み重ねてきた歴史と来歴に対する冒涜を通り越して凌辱です。さらに、一等客室・給仕室部分を全撤去し、部品破棄作業がありそうだ、と言う話が出てきたからさぁ大変。故・黒岩保美氏が直接手がけられた給仕室の装飾レリーフや、当時の国鉄がGHQ(CTS)と張り合って残した、名実共に「日本初のリクライニングシート」と言える長森式リクライニングシートが産廃にされてしまう可能性がありました。
これを押しとどめるには、決定を覆すための資料が必要です。私も、微力ながら資料や当該事実を証明する史料捜索とコピーに協力し、岸さんに手渡したのを憶えております。今、それらのパーツは、ひっそりではありますが、別の場所に保管されているとの由。ともあれ「部品辛うじて残る」と言う報せが伝わった日、岸さんと共に、さもない居酒屋でホッと胸をなで下ろし、ビールを飲んだのを思い出した次第。
「学芸員」として「研究者」として鉄道資料保存と研究の大切さと、鉄道に興味を持つ楽しさや面白さを広めた人、鉄道趣味を楽しむ人にとっての「よき兄さん」として、多くのことを教えていただきました。これからさらなるご活躍を、と誰もが思っていた時の報せに、暫く仕事に手が付かなかったのがその実でありました。
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